拉致被害者の一人、田口八重子さん。彼女は北朝鮮に拉致されて以来、消息が途絶えています。しかし、大韓航空機爆破事件の実行犯だった金賢姫の教育係として関わった李恩恵と同一人物である可能性が浮上しています。
果たして、この情報が真実なのか?そして、田口八重子さんは現在も生存しているのでしょうか?その真相に迫るために、詳しく調べてみました。
田口八重子さんが失踪?
田口八重子さんは、1955年に埼玉県川口市で生まれ、彼女は7人兄弟の末っ子で、四女でした。彼女は子供好きで、負けず嫌いであったが、中退した後、スポーツもやっていて、身長165cmほどでスタイルが良く、ファッションセンスも良かったとされています。
1978年に、彼女は生活能力のない夫と離婚し、女手一つで2人の子供を育てるために池袋のキャバレーで働くことを決めました。彼女は、ちとせと名乗っていました。彼女がキャバレーで働く決心をした理由は、託児所が完備されていたからでした。
最初は託児所で子供を預けていたが、深夜に寝ている子供を起こし、自宅アパートまで連れ帰るのがかわいそうになったため、ベビーホテルを利用するようになりました。
しかし、1978年6月、彼女は2人の子供をベビーホテルに預けたまま失踪しました。彼女は、家族や友人には理由を告げず、勤め先にも顔を出さなかったとされています。
彼女の兄である飯塚繁雄さんは、彼女と子供たちが住んでいたアパートを訪れたが、家具や食器は普段通りで、帰ってくる際には何の変化もなかったと言われています。
7月4日に繁雄さんは警察に捜索願を提出し、彼女が残した借金や未払いの部屋代を肩代わりしたとされています。
現在も田口八重子さんの行方は分かっておらず、彼女が何故失踪したのか、どこにいるのかは不明なままです。しかし、彼女の失踪は長年にわたって謎として語り継がれています。
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田口八重子さんは金賢姫の教育係・李恩恵か?
1987年11月29日、大韓航空機がビルマ沖上空で空中爆破され、115人全員が死亡した大韓航空機爆破事件。事件直後より、途中で経由地アブダビ空港で日本人名義の旅券を所持する男性と金賢姫が降りたことが判明し、2人は拘束されました。
2人は事情聴取中、カプセルに仕込んだ毒薬で自殺未遂をはかり、男性は死亡し、金賢姫は意識を失いましたが一命を取り留め、12月15日にソウルに移送されました。
金賢姫の教育係・李恩恵
大韓航空機爆破事件の実行犯だった金賢姫は北朝鮮で、日本の文化や習慣を身につけるために日本人化教育を受けた女性の1人でした。1981年7月から1983年3月にかけて、彼女は日本から拉致された女性の1人である「李恩恵」と共に生活していました。
金賢姫は、李恩恵から1対1で指導を受け、すべての会話で日本語を使用し、日本人の思考方法まで学びました。金賢姫と李恩恵は、寝る時間以外は常に一緒に過ごし、彼女を日本人にするために全力を尽くしました。
指導は日課表に基づいて進められ、彼女が理解するまで根気強く教えました。李恩恵は自分で講義録を作り、テレビニュース、ニュース解説、日本映画、ドキュメンタリーなどの録画テープを教材として使用しました。
金賢姫は、李恩恵から、日本の歌や習慣、作法、交通施設の利用方法、各地域の特性、日本の社会秩序、身だしなみ、服装、履物の整え方、化粧法など、ありとあらゆることを学びました。
田口八重子さんは金賢姫の教育係・李恩恵か?
李恩恵は、子供たちと海岸を散歩していたとき、北朝鮮の船に拉致されました。彼女は船酔いがひどく、何日も食べずに昏睡状態に陥りました。北朝鮮に上陸したときは、普段着のままで、持ち物はハンドバック1つだけでした。
李恩恵は、おそらく日本の酒場で働いていた女性であり、酒とたばこを好んでいたとされています。また、李恩恵は金正日の誕生日に招待され、日本人拉致被害者の夫婦に会ったことを話し、すぐに後悔して、今後は話さないで欲しいと懇願しました。
李恩恵は、北朝鮮に拉致された日本人の1人であり、朝鮮名としては「高恵玉(コ・ヘオク)」として呼ばれていました。彼女は北朝鮮で、外国人としては比較的ましな待遇を受け、主に教育係として働いていましたが、一般人と同じ待遇を望むこともありました。
1991年5月、警察庁と埼玉県警察が田口八重子さんの捜査を行い、金賢姫に田口八重子さんの写真を見せたところ、金賢姫はためらわずに八重子を指し示し、「李恩恵」が田口八重子さんであることが明らかになりました。
この発表後、田口八重子さんの家族はマスメディアに公開されました。5月20日、日朝国交正常化に向けた第3回交渉で李恩恵の消息調査が持ち出されたが、北朝鮮側は怒り、席を蹴って退室しました。
北朝鮮政府は大韓航空機爆破事件が韓国側のでっち上げであると主張し、金賢姫なる人物も実在しないとの立場を取っていました。
田口八重子さんは現在も生存か?
2002年、小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問され、日朝平壌宣言を発表されました。これにより、北朝鮮はこれまで否定していた拉致問題を認め、謝罪されました。
金正日総書記は70〜80年代に特殊部隊が誤った指示で日本人を拉致したことを説明し、関係者を処罰したと述べられました。また、拉致被害者の安否情報を提供し、その中で田口八重子さんを含む8人がすでに死亡していると発表されました。
この発表により、日本国民の怒りが高まり、北朝鮮に対する事実調査チームが派遣されました。調査結果は、10月2日に公表されました。
しかしながら、北朝鮮の元対外連絡部指導員の手記によると、田口八重子さんは1986年から1991年まで講師を務め、その後、周辺に自分の身分を語り、アルコール中毒になるなどしたため、1996年頃から平壌市順安区域の招待所で隔離されていました。
その後の安否は不明ですが、2000年と2009年に日本政府は生存を信じるコメントを発されています。また、韓国の情報機関が数十人の拉致被害者が平安南道平原郡元和里に移動させられたことを報告しており、田口八重子さんが含まれる可能性もあるとされています。
田口八重子さんの子供
田口八重子さんの子供たちは、彼女の兄弟によって日本で育てられました。田口八重子さんの息子の耕一郎さんは、長兄の飯塚繁雄夫妻によって育てられました。
彼女の娘は、田口八重子さんの二番目の姉に引き取られました。飯塚繁雄さんは、彼らが成人すると、彼らに八重子さんの子供であることを伝えました。
2002年に飯塚繁雄さんは北朝鮮による拉致被害者家族連絡会に参加し、横田めぐみさんの両親らと共に活動するようになりました。田口八重子さんの息子である耕一郎さんは、東京の情報技術会社のエンジニアであり、2004年に北朝鮮による彼女の死の主張は「ナンセンス」だと公に主張しました。
金賢姫は2009年に田口八重子さんの兄の繁雄さん、長男の耕一郎さんと面会し、「お母さん、生きていますよ」と語り続けました。耕一郎さんは「母が確かに生きているという証拠を受け取りました。私は私たちの救助活動に新たな希望を持っています」と語りました。
まとめ
李恩恵が金賢姫の教育係として田口八重子さんと同一人物である可能性が浮上しています。この情報が真実であることを願いつつ、田口八重子さんが早急に帰国できることを切に望みます。
長い年月が経ちましたが、現在も田口八重子さんがまだ生存している可能性があります。彼女を取り巻く環境や情勢が変化する中、無事に帰国する日し、子供達や家族が再会できる日が来るに違いありません。
田口八重子さんと子供達が幸せに暮らすことができるよう、願い続けます。